onewomanのプロフィール
はじめまして!onewomanと申します。
2018年から正式にbitomosのライターの仲間入りをしました。出来たてのホヤホヤです。昔から自己紹介をするのは苦手なのですが、少しでも興味を持っていただけたら幸いです。
私の人格形成のベースとなったもの
皆さんはどのくらい子どもの頃のことを覚えているのでしょうか?私は余り記憶がありません。
私の母は、叔母いわく“ジェームス・ディーンのファン”で“太いベルトにタイトスカートにハイヒールをで”父親に怒られてもケロッとしているような明るい人。父は公務員で不器用で生真面目な人なので“お見合い結婚”かと思っていたら、父母はなんと大恋愛の末の結婚だったようです。
そんな二人の間に生まれたのが私です。そして後に弟が生まれ、4人家族となりました。
父の宿舎の団地に住んでいて、子ども達は大体が同世代。泥の玉の投げ合いっこしたり、高いところから飛び降り競争したりして、おてんばでした。
小学校時代~母の死~
私の母は、私が10歳になる年に37歳で食道がんで亡くなりました。それまでの私は母の“愛情”に包まれて、外から傷つけられることもなく成長していたのだと思います。
忌引が明けて学校に行った時に、ある男の子から“お前のかあちゃん死んだんだってな”と言われたことを鮮明に覚えています。そのとき生まれて初めて誰かを“憎い”と思いました。多分この頃から私の自我が目覚めたのだと思います。
中学時代~新しい母との出会いと家庭崩壊の始まり~
中学に入る頃、父は今の母と再婚しました。父が再婚すると聞いたとき、私はよくドラマにあるように“そんなの嫌だ”とは思いませんでした。弟も幼かったし、父の再婚を仕方のない事だと感じたのだと思います。
母は父とは初婚で子育ての経験はありませんでしたが、一生懸命私と弟を育てようとしてくれました。亡くなった母の実家とも縁を切ろうとはせず、毎年お正月には亡き母の実家へも年始の挨拶に行ってくれました。
あるとき家族4人で旅行をした時のことです。旅行も後半になったころ、私はきっと疲れてぶすっとした顔をしていたのでしょう。父が突然“折角旅行に来てるんだからもっと楽しそうな顔をしなさい”と言ったのです。驚きました、今までそんなことを言われたことは無かったからです。
私は中学3年生になった頃、ある男子と付き合いはじめました。ところが中学3年生といえば高校受験の年です。恋にうつつを抜かしている場合じゃない、三者面談で先生から男子との交際を辞めるように言われたのです。
それからが大変でした。父母からは子供は勉強が優先、男女交際なんてまだ早い、と怒りの嵐が吹き荒れました。私はこのままでは家族はバラバラになってしまうと悩み、好きな人と別れたのでした。
だがその頃の私は14歳から15歳へと思春期の真っ最中。この頃から私と父母の構築していこうとしていた“家族”というものは大きくねじれていったのでした。
高校時代~家族といるのに安心できない日々~
高校生になってから、自分から父や母に話をすることは無くなっていきました。母親に何か聞かれて話したとしても、結局説教になると思うと話す気もなくなります。普通、お父さんが厳しい人だと、お母さんが後で子供に優しい言葉をかける、またはその逆が一般的なのだろうと思いますが、私の父母は二人ともが私に厳しく接しました。
私は特に父に怒られることがとても怖かったのです。その怒りの顔、答えの出ないような私への質問の仕方。私の心をえぐり出すような言い方、怖くてとても嫌な時間でした。
父に叱られている時に、私はふと気が付きました。こんなに辛い思いをするのなら、何か言われても感じないようにすればいいんだと。私には気を許して話ができる大人がいませんでした。
もう一つ大きな苦痛だったのは、休みの日やお正月に亡き母と今の母の実家の、二人の母の実家へ出かけていくことでした。
今の母は私達と母の親戚達とを交流させたかったのでしょうが、同年代の子がいる訳でもなく、だからといって今まで知らなかった叔父や叔母との付き合い方も分かりません。いる場所もなく息苦しくて仕方ありませんでした。
亡き母の実家に行けば、母は亡き母の親戚達に溶け込もうと努力して話しているのですが、私は叔母から“貴方のお父さんは○○さん(今の母のこと)のいいなりだね”と言われたり。帰宅する車の中では誰もが無言で、私はといえば窓の外の冬の空をじっと見ていたことを覚えています。
大学時代~自分が自分でいてもいい場所をみつける~
大学で何か自分が打ち込めるものをみつけようと考えた挙句、映画制作のサークルに入りました。
大学まで通学に片道2時間かかります。しかし家の門限は19時でした。授業が終わってサークル活動をしていたら、19時に家に着くなんて無理です。しかし両親にしてみれば、授業が終わってまっすぐ家に帰ってくれば、19時には間に合うはずだと全く話はかみ合いません。
そんな具合ですから家に帰っても針のムシロ。ご飯を食べる時も誰とも目を合わせずただ黙々と早く食べ終わり、自分の使った食器を洗って、二階の自分の部屋に逃げるように戻るという生活。父より私のほうが先に家にいれば、家の門が開く音で、ああ父が帰ってきたと気持ちは暗くなるという生活でした。
大学卒業後~両親の理想をまたもや裏切る~
自分たちが作った映画がある映画祭で評判が良かったこともあって、大学を卒業してもアルバイトをしながら映画制作を続けることにしました。両親はもちろん大反対しましたが、本人が就職活動しないのですから就職はできません。本当に傲慢でした。
このころ派遣社員という働き方が新しく生まれはじめた頃で、映画制作活動を続けながら、派遣会社で働くという生活を始めました。
一人暮らしを始める~終わることから初めてみた~
映画制作をしている間は、もちろん門限は守れません。仕事をしているときも家に帰るのが嫌で、彼氏の家に1ヶ月も泊まるなどという非常識な生活を私は続けました。でも家に帰らなければならない日はあるもので、そんな日は家で父に殺されるのではないかと真面目に思いました。
しかし母も悩んでいました。母が私の友達に相談し“お母さん泣いてたよ”と友達に叱られたこともありました。
私は父母に“もうこんな生活を続けても、今の状態は良くなるとは思えない。家を出たい”と話しました。都内に風呂なしの六畳一間の部屋をみつけ、家を出ることにしました。家を出る日、父は私に一言も口をきかず、顔も見ませんでした。母だけは私がどんな所に住むのが知っておきたいと言い、私の荷物を母の運転で車で運んでくれましたが、母もただ黙っていました。
何が私の家族をこうさせたのか
何故、私の家族はこんな形で崩れてしまったのか考えました。出発点での父母と私の目指したのは単純にいえば“仲の良い家族”でした。それが、
父は私に母を困らせない良い子であることを要求する
↓
私が反抗し始める
↓
母は私を正しい道に戻そうと叱責する
↓
父は母の機嫌を損ねている私にイライラする
↓
両親の私への締めつけが厳しくなる
↓
私が反抗する
という悪循環を続けることになってしまいました。
それと、両親の不仲。私の目の前で両親が喧嘩するのを見た訳ではありませんが、母の父に対する不満のようなものを感じていました。両親が中が悪いことほど、子供にとって辛いことはないと思います。
まず両親の仲が良ければ、子供はそんなには荒んだ心を持つことにならないのではないのではないでしょうか。そして家族であるからこそ、愛情を受けるのが当然だと思い、それが裏切られると、他人に対する以上の憎悪を抱いてしまうのです。
例えば私の家族がそうだったように、両親が再婚して血のつながらない子供を育てている家族には、親戚の者でさえ、そう簡単に口出ししたりアドバイスできるものではないのです。もし私が外に向かって大声で助けを求めたとしても、家族の誰かが“家”の扉を少し開けて、“大丈夫です”と言って扉を閉めてしまったら“家”は中の家族を隠してしまうのです。
現在の私
今の私は、夫と猫一匹の三人(?)家族で暮らしています。しかも、もう二度と戻るまいと思っていた私の実家の隣でです。人生ってわからないものですね、本当に。
三年前、父が病気を患い自宅療養となりました。母が一人で父の看病をしていました。いわゆる老々介護です。
私は既に結婚して家を出ていたのですが、休みの日には実家に帰って母の手伝いをするようにしていました。母は、看病においても手を抜かない、どこまでも真面目な人なのでした。
父は私を許してくれただろうか
実は一人暮らしを始めてから、初めて実家に戻った日の翌日、また一人暮らしの部屋に戻るとき、今を逃したらもう一生父と話をすることが出来ないかもしれないと思い、勇気をだして父に話しかけたのです。
すると父は“もう少し家に帰ってくるようにしなさい。お母さんが心配するから”と言いました。帰りの電車の中で、私は涙をこらえることが出来ませんでした。
父の体調が良い時は、家の周りを散歩することもありました。足の弱っている父を支えるため、初めて手をつないだ時、月並みですが暖かいなあと思いました。父は私を頼るように手を強く握り、つたなく歩を進めました。
そして父は亡くなりました。厳しく私を睨みつけた目も、髪の薄くなった広いおでこも、動かさないので固まってしまわないようにさすった足も、血管の浮き出る手も、全てが灰となって消えてしまい、残ったのは骨だけでした。
結局、どんなに悩んだり苦しんだりしても、死んでしまえば、ただの骨になるだけ。だから、たった一度きりの人生を、自由に楽しんで懸命に生きろ!と、父は身をもって教えてくれたのだと思いました。父にはそれが出来なかったかもしれないけれども。
そして私は母が一人で住む実家の隣の家に、住むことを選択したのでした。
これまでの私
私のいままでをグラフで表すとこんな感じです。でも幸福度・安定度を一緒に考えると難しいですね。やりたいことはやれて幸福度はあっても、家庭との関係を考えると心が安定はしていなかった。でも一人の人間の死が周りにこんなにも影響を与えるものなのだと、しみじみ思います。
これからの私
私の暗く屈折した話をここまで読んで下さったあなた!本当にありがとうございます。ここからは多少明るくなるので(多分)ご安心下さい。
私は勝手に、人間は大雑把に2つに分けると“何かに身を投じて生きがいとしてのめり込んで毎日を生きる”タイプと、“大げさな生きがいなど無くても1日1日を楽しくベストを尽くして生きていく”タイプとに分かれるのではないかと思っています。
私はまさしく前者の人間です。前者の人間はその“何か”をみつけられないと、とても生きにくいのです。
私は今までずっとそれを探し続けてきました。ある時はそれをみつけて、ある時はそれに挫折して、それでもまだその“何か”を探しています。“打ち込めること”のない毎日を私は“ただ毎日を黒く塗りつぶして生きている”ように感じてしまうのです。
そして偶然にもbitomosでライターとして記事を書かせていただけることになりました。私が苦しみ続けた父と母との関係から得た経験から、同じように悩んでいる方の気持ちが少しでも切り替えられるような記事を書きたいと思います。
私のアンテナ
私の妖気アンテナにひっかかった、好きなもの、気になるもの、ことをご紹介します。いずれは記事にしてみたいです!
おしゃれが好き
洋服
これは私が大好きなロメオ・ジリというデザイナーのショーに出た服です。この立体的なヘチマ襟といいコートのシルエットといい、また刺繍のあしらい方とか、パンツの合わせ方とか。ついでに言えばモデルさんの髪型も素敵!
しかし残念ながら私には到底手の出せるお値段ではありません。ロメオ・ジリにはセカンドラインでGigliというブランドがあったので、そこでクレジットで買っていました。時代とともに同じ四十代でも昔の四十代とは洋服に対する感覚も違うと思います。
今の四十代、五十代で、もちろんそんなに高価なものではなく、でも今の感覚に合ったファッションというものを追求したい、記事にしていきたいと思います。
着物
母が着物が好きなことも影響して、私は着物が大好きです。初めて着物を見た時、その布地の美しさに魅了されました。現在KIMONO姫という雑誌があったり、着物を着る人が増えているような気がします。そして今、アラフィフの女性でも着物に靴を合わせたり、今までの概念をくつがえす着こなしをしている方もよく見かけます。
着物は柄と柄の合わせ、帯との合わせ、帯締め帯揚げ帯留めの合わせ、着物と半襟の合わせなどとコーディネートの嵐な訳です。着物の魅力をもっと知りたい、そして人に伝えたいと思います。
民族衣装
私は民族衣装が好きです。この写真はモン族のもので、モン族は中国、ベトナム、タイ、ラオスなどに広く点在し居住しています。その民族衣装のカラフルさ、刺繍の素晴らしさ、私はその魅力を説明しきれません。見て何故か“いい”と思うのです。
他にもペルーの山高帽をかぶる民族衣装、アフリカの少数民族衣装などにも魅力を感じます。黒柳徹子さんの衣装を見て、いいな、と思うことが多いのですが、黒柳さんも民族衣装が好きだということを知って、なんとなく理解できました。
写真が好き
私は日常の人間の生活を撮影した写真が基本的には好きなのですが、この写真には感動しました。難民の人々が休む木の下に光が降り注いでいる。まるで神がいたわるように。
この写真を撮影したのは、セバスチャン・サルガドという有名な写真家です。他にも世間的には貧しい人々などの写真や、難民の人々など、弱者の写真や、動物の写真など、起源的な写真を撮影している方です。このような素晴らしい写真家の人々の記事もなんらかの形で書けたらと思います。
映画が好き
映画にこだわってきた割には、それほど映画を見ている訳ではない私。観るより創ることが好きだったのです。
そんな私が皆さんにご紹介したい映画は“東京物語(小津安二郎監督)”です。田舎に住む老夫婦が都会に出た娘、息子達に会いにいく話です。この映画には家族の普遍的な形が描かれています。その描ききる残酷さが辛くて、私は“東京物語”を好きとは言い切れない所以なのですが、興味がある方には是非見ていただきたい映画です。
音楽が好き
1970年に福岡県の博多で結成されたバンド。こんなバンドが日本にもあったのかと衝撃を受けました。私がライブハウス通いを始めるきっかけとなったバンドです。
ヴォーカルの菊は70歳の今も現役でロックを歌っています。サンハウス、必聴です!!基本的に音楽を聴く時は歌詞を聴くことから入ります。中学の時に男子に借りた“ディープ・パープル”を好きになったのが音楽を聴く始まりでした。
料理が苦手
母の手伝いをよくしていたのですが、母は完璧に自分で作りたい人だったようで、私は鰹節を削ったり、ドレッシングを作ったりとアシスタント役。そのためか料理が苦手です。第一レシピを覚えることが出来ないのです。
しかし夫のメタボ解消の為にダイエット料理を作らなければならず現在苦戦中。ダイエットレシピが手早く作れるような料理上手になりたいです。自分の勉強の為にもダイエットレシピに関する記事も書いていきたいです。
”何かが残るような”記事を書きたい
ハワイには“No rain,No rainbow”という言葉があるそうです。この言葉を聞いたとき、私の雨がザーザー振りっぱなしの道のりも決して無駄にはならないのだと感じました。
bitomosのライターとして、私の記事を読んでくださった方に、小さな種でもいいから“何かが残るような”そんな記事を書いていきたいと思います。
大切な時間を使って、ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
bitomos編集部プロフィール
そのライターの経歴や性格を知れば、今後どんどんbitomosの記事を読むのが面白くなるかも!?この記事ではライターそれぞれの自己紹介と、記事を彩るゲストキャラクターたちを紹介していきます。あなたのお気に入りのライターが見つかりますように♡