50代女性の生き方を豊かにする趣味!おしゃれ好きなら浮世絵鑑賞は如何?
“50代の女性の生き方”ってちょっと難しいと思いませんか?例えば20代、30代、40代の頃は結婚、仕事、子育てなど何か目標に向かっている時代です。しかし50代という年代は、ふと立ち止まり自分の生き方を今一度見直す時期なのだと感じます。子供は巣立ち始め、さて将来はと見据えてみると“老いていく自分”が現実的に見えてくる。そんなとき“やりがい”や“楽しめるもの”を持っている人は強いと思います。
それは仕事でもボランティアでも趣味でもなんでもいいのです。『趣味なんてないわ~』という方で、おしゃれや着物が大好きという方に是非おすすめしたい趣味があります。Cool Japanと言われる今、“浮世絵鑑賞”はいかがですか?
Contents
鈴木春信
江戸時代に浮世絵が多色刷りの木版画となり、一般庶民が愛玩するものとして浮世絵文化が一斉に花開きました。その先駆者である鈴木春信の浮世絵をまず紹介したいと思います。浮世絵を今まであまり見たことがないという方でも、鈴木春信の浮世絵は知っている方も多いのではないでしょうか?
風流やつし七小町 かよひ
“風流やつし七小町”というシリーズの“かよい”という浮世絵です。“やつし”というのは日本独特の美意識で“浮世絵”では和漢の古典を、姿かたちを変化させた人物像として描くことをいいます。また“七小町”は絶世の美女としても知られる歌人・小野小町を題材にした能楽音楽の総称です。“かよい”とは世阿弥ら、能の作者が創作した小野小町にまつわる“百夜通い”という伝説をもとにしています。
この絵では美しい女性が長い煙管を持って縁側にすらりと立っています。これが小野小町です。右に座る少女にも見える清廉な女性は深草少将とされ、小野小町への憧れを漂わせています。
この歌は、榻(しじ)とは牛車を引く棒を置く台のことで、そこに深草少将は通った日数をしるしていました。“(深草少将の上の句)夜明け前に帰る時、榻に通った日の数の印をつけておきます(小野小町の下の句)あなた様が来ない夜は私がその印をつけましょう”という意味となり、小野小町の心が深草少将に傾いていっていることを表しています。
このように、絵の中に書かれた人物や和歌をヒントに、その絵を読み込んでいくという遊びがあるのも、浮世絵の一つの楽しみだと言えるでしょう。
笠森お仙と袖頭巾の若侍
谷中の笠森稲荷門前の茶屋の娘で“お仙”というとても美しい女性がいました。鈴木春信はこのような市井の女性である“お仙”もモデルにしての浮世絵を描きました。この絵の中心にいるのが“お仙”、右に座る頭巾をかぶった男は侍です。
喜多川歌麿
喜多川歌麿といえば、葛飾北斎と並び世界に知られる浮世絵師です。俳諧や狂歌にもたけ、精密に植物や虫などを描いた“狂歌絵本”を出版し、狂歌人気と相まって歌麿の出世作となります。
美人画では、女性の様々な姿態や内面までをも描くことを追求し、大首絵という画法を完成させました。歌麿の活躍した時代は幕府の民衆への締め付けが厳しくなり、享楽的ともされる浮世絵に度々の制約が課せられましたが、歌麿は“判じ絵”(絵を見て答えを探るなぞなぞのようなもの)などにより幕府に抵抗しました。
このことは浮世絵の多様化の一端を担い、後の世に貢献する結果となりました。
団扇を持つ高島おひさ
この“高島おひさ”は江戸両国にあった煎餅屋・高島屋の娘で、歌麿に浮世絵に描かれたことで江戸三代美人の一人となりました。歌麿の浮世絵では背景を無地にし、女性のふくよかな女らしさ、女性独特の姿形を繊細な線で描いています。
おひさに黒い着物を着せて、まだあどけなさの残る美しい容姿をきわだたせ、一方でざっくりとあいた胸元がなまめかしさを醸し出しています。手にした団扇には高島屋の家紋が入っているところから、おひさの生家は裕福であり、当時そのような娘は姫君のような教養を身につけていたと思われます。
しかし左にある“愛嬌も茶もこぼれつつさめぬなりよいはつゆめのたかしまやとて”の狂歌にみられるように、とても愛嬌のある可愛らしい女性だったようです。
青楼十二時 戌ノ刻
青楼とは江戸時代は吉原を意味しました。吉原の夜見世は午後6時頃から始まります。遊女は赤い敷物の上に座って客待ちをします。
絵の右上の時計に“戌の刻”とあり、午後8時の前後2時間頃の時間であることがわかります。店が開いてから2時間程も経ったのに客がつかず、その暇に馴染みの客に手紙を書いている遊女の様子が描かれているのです。
この絵は歌麿の円熟期に描かれたもので、素直に真面目そうな禿が行儀よく中腰で遊女の言うことを聞いている様子と、遊女が禿の耳元にひそひそと語りかけている姿がバランス良く安定した構図で描かれています。
また美人浮世絵師として有名になった歌麿にもライバルが現れます。鳥文斎栄之という浮世絵師で、12等身の美しい女性の美人画を書き評判となりました。
歌麿もその影響を受け、身体のバランスや衣装の美しさにも着眼するようになったのが、この“青楼十二時”シリーズです。12枚の絵で構成されており、遊女の一日の生活が描かれています。時間ごとに各絵に描かれている時計の花の姿が変わっているなど、それぞれの絵が細かい気配りや緊張感を持って描かれているのを感じます。
歌川豊国(初代)
幼少期から浮世絵を学び、男女共に理想の美しさを追求した役者絵や美人画で絶大な人気を得ました。役者絵としては清新な画風が好評で、時代の好みをいち早く捉えることに長けていました。
同時期の“東洲斎写楽”の役者絵は、特徴をそのまま美化せず、デフォルメを駆使して役者の本質を捉えた大変優れた絵を描きました。しかしブロマイド的に役者絵を求める人々には、好みの役者の美しい姿を描く豊春の浮世絵の方が歓迎されたようです。
また豊国は美人画においても時代の要求を取り入れた、粋でアダな気風の女性の美人画を得意とし大人気を博しました。
初代・岩井粂三郎を描いた役者絵
歌舞伎役者、初代・岩井粂三郎を描いた役者絵です。すっきりとした媚のない表情で煙管を持ち、サバサバとした女性という印象を与える、男性の役者が演じる女性の内面がよく表現されていると感じます。着ている着物もどちらかと言えば地味ですが、粋な女っぷりを描いた品のある浮世絵です。見る人によっては“小股の切れ上がったいい女”と言えるのではないでしょうか。
岩井粂三郎自身が“眼千両”といわれるほどの眼差しで、容姿端麗で、愛嬌もあるといった江戸一の人気役者であったようです。歌川豊国は他にも役者の全身を描いた役者絵も数多く残しています。
風流七小町略姿絵・かよひ小まち
また出てきましたね“かよひ”と“小まち”。“かよい”とは前出のように小野小町にまつわる“百夜通い”という伝説がもととなっています。そして“小まち”と言えば、“小野小町”のことですね。
このように、同じ題材を色々な浮世絵作家が描いているということは、このお話が庶民に愛好されていたとも言えるでしょう。
この絵では客筋へでも通おうとする垢抜けした粋な姿の江戸前芸者は“小野小町”です。反り身気味のすらりとした姿が画面をピシッと引き締めています。
隣の仲居の女性でしょうか、送りの女のくねった様子の姿は“深草少将”。素直に憧れの感情を浮かべ嬉しそうな表情が“小野小町”に対する思慕の思いを大変よく表していると思われます。そして提灯の灯りが、その二人をくっきりと浮き上がらせている。作者のセンスの良さを感じさせます。これは浮世絵の摺りの技法の向上が、このような表現方法を可能にさせたとも言えるでしょう。
渓斎英泉
下級武士の子として生まれ、12歳より画技を学び、元服を期に侍奉公に出るも上役と喧嘩して浪人となりました。その後狂言作者見習いとなりましたが、20歳のときに両親をなくし、3人の妹の面倒をみなければならず、狂言作者の道を諦めたそうです。
その後浮世絵師菊川英山の門下生として英山宅に居候しつつ浮世絵を学びます。また近所に住んでいた葛飾北斎の家にも出入りし、その画を学びとっていったとされます。やがて文筆家と絵師として数多くの艶本を発表していきました。その中で英泉独自の退廃的で妖艶な美人画を確立していき、それが時代の好みとも相まって高い評判を得るようになったのです。
今様美人拾二景 てごわそう 深川八幡之新富士
“今様美人拾二景”は12枚組の大判錦絵で、江戸時代に寺社参詣、名所巡りなどの行楽ブームがおこり、そのような時代背景をもとに描かれた作品です。絵の上部に描かれた絵巻物のこま絵の中に江戸の名所絵が描かれており、その下に“おとなしそう”“気が強そう”“気がかるそう”などと“○○そう”というタイトルがついた12人の美人画が描かれています。
さて、この女性“てごわそう”と題されています。眉をひそめて目もつりあがり、指先にまでなにか緊迫したような雰囲気です。手に紅猪口を持ち、唇に紅を塗っています。この紅は玉虫色の紅で、とても高価なものでした。
この紅を何度も重ね塗り、笹の色になるまで塗る“笹紅”という化粧法が一時期流行しました。しかしふんだんに紅を塗ることが出来るのは富裕層のみであったようです。つまりこの女性は“笹紅”が出来るほどの裕福な遊女でしょう。
さてこの絵の上部のコマ絵に描かれているのは、“深川八幡之新富士”とあります。現在の深川の富岡八幡宮のことです。このこま絵と遊女の関係は不明ですが、江戸の行楽ブームの折、この遊女が男性と富岡八幡宮へ行くことにまつわる気を揉むようなことがあったのか。想像するに限りはありません。
吉原要事廓の四季志 八月八さくにはか・大文字屋内誰袖
“吉原要事廓の四季志 八月八さくにはか・大文字屋内誰袖”は吉原での一年間の行事を描いている12枚組の作品です。ここに描かれている“誰袖”という女性は大文字屋では最高位とされる人気の高い遊女で、着物には洋風の壺が描かれていたりと豪華な着物を着ています。
髪も乱れ、空に夜明けの鳥が飛んでいくところから、明け方に馴染みの客を送り出しているところだと思われます。渓斎英泉は女郎屋の経営もしていた人で、遊女たちを強い意志をもって働く女性として描きました。
“八月八さく”とは江戸時代の8月1日のことで、現代の太陽暦で言うと8月30日の頃です。この日吉原の遊女達は、白い小袖や白無垢を着て客を迎えたと言われ、客たちはまだ暑さの残る時期に雪のような白い景色を楽しんだようです。また俄(にわか)とは吉原で行われる三大行事の一つで、芸者衆が狂言を演じながら廓中を練り歩くもので、その様子が絵の上部のコマ絵に描かれています。
月岡芳年
幕末から明治にかけて活躍した“最後の浮世絵師”と言われています。歌川国芳に入門し、武者絵や役者絵などを手がけました。また芝居や伝説などの残酷なシーンを描いた“血みどろ絵”“無惨絵”の分野においてはトップとも言える存在でした。これには幕末から維新にかけて血なまぐさい事件が起こる情勢において、恐怖を感じつつも見てもみたいという人々の欲求もあったのだとも言われています。
のちに強度の神経衰弱を患いながらも立ち直りをはかり“蘇り”を意図し“大蘇芳年”と号を変えます。本格的に画技を鍛錬することに努め洋風画なども学びました。美人画・風俗画などにも精通し、その生涯での製作数は1万点にも及ぶといわれる多作家です。
全盛四季冬 根津花やしき 大松楼
根津の遊郭・大松楼に大変美しい幻太夫という遊女がいました。少々変わった人で、部屋の様子も姿形も他の遊女とはだいぶ違っていたそうです。床の間にだるまの掛け軸をかけたり、棚の上に観音菩薩・勢至菩薩・閻魔大王の像を置いていたと言われています。また髪型も当時の遊女としては珍しい切り下げ髪にし、着物の打ち掛けの背中一面に阿弥陀像をあしらい、中着にはドクロと卒塔婆、下着には蓮の花の染め抜いたものを着ていたそう。月岡芳年は一時期この幻太夫への元へと通っていました。
この絵には幻太夫が描かれており、着物には白猫でかたどったドクロや蜘蛛までもが描かれています。だいぶ気の強い女性だったそうですが、ここには雪うさぎをお盆に載せた愛らしい女性として描かれています。
新形三十六怪撰“地獄太夫悟道の図
地獄太夫とは室町時代の遊女の名前です。善光寺参りに行く途中山中で賊に囚われてしまいましたが、あまりの美しさのため、遊女として売られてしまいました。
現世でこのような境遇となってしまったのは、自分の前世の報いであると受け入れ、自らを“地獄”と名乗りました。着物には地獄絵図を施し、念仏を唱えながら客を迎えたといいます。和歌の才にも長け、大変人気のある遊女でした。
“地獄大夫 悟道の道”と題されたこの絵の地獄大夫は、背筋をすっと伸ばして座り、背景にうごめく白骨の姿をも優しく見るような、柔らかな表情をしています。一度強く覚悟を決めた女性の内面を醸し出しているようです。
地獄太夫は街で出会った一休和尚から“地獄も極楽も現れ方は違っても、元は一つで同じこと”と悟ったそうです。ちなみに幻太夫は地獄大夫の再来だとも言われていたそうです。
長く続けられる趣味!浮世絵鑑賞の魅力
江戸時代に端を発した浮世絵は、町民文化の発展の象徴とも言えます。江戸時代の人々にとっては、お洒落や流行・文化を知るための雑誌やパンフレット、ブロマイドのようなものだったのです。そのため現代のように浮世絵は高い値段で売買されるものではなく、手軽な値段で手に入れることが出来るものでした。
しかし、江戸庶民の浮世絵に要求するものはどんどん高まり、つまらないものは売れません。そういうビジネス面も含めて、浮世絵師たちは芸術的レベルを高めていったのでした。
浮世絵鑑賞は長く続けられる趣味です。インターネットで好きな浮世絵を探すのも楽しいですし、図書館で浮世絵の本を借りたりしても楽しめます。
美術館の浮世絵展に出かけるのは如何ですか?着物をお召になる方は、着物で出かけると自分の気持ちも上がりますし、周りの人達も着物姿の女性には目を惹かれます。ご自分の生活の空き時間を利用しての“浮世絵鑑賞”是非おすすめします。
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